アニメ『終末ツーリング』が放送された途端、SNSでは「これって『少女終末旅行』のパクリじゃない?」という声が一気に広がりました。
確かに、二人の少女が荒廃した世界を旅するという構図はそっくり。でも、ただ“似ている”だけでパクリと決めつけるのは早すぎます。
この記事では、アニメ『終末ツーリング』がなぜ「似てる」と言われるのか、そして実際にはどんな独自の魅力があるのかを、元ネタ・作者コメント・ファンの声を交えて徹底分析していきます。読めばきっと、「あ、これはただの模倣じゃない」と感じてもらえるはずです!
- ✔ 『終末ツーリング』が「パクリ疑惑」で話題になった経緯とSNSでの反応
- ✔ 『終末ツーリング』と『少女終末旅行』の共通点と異なる5つの要素
- ✔ 作者・さいとー栄氏や制作陣が語る“リスペクト”と“創作意図”の真相
- ✔ 「パクリ」ではなく“ジャンルの継承”としてのアニメ文化の進化の形
- ✔ 終末を走る少女たちが描く“希望”と“記録”というテーマの奥深さ
『終末ツーリング』は本当に『少女終末旅行』のパクリなのか?
アニメ『終末ツーリング』が発表された瞬間、SNSでは「これって少女終末旅行のパクリじゃない?」という投稿が拡散されました。
確かに、二人の少女が終末世界を旅するという設定はそっくりに見えるんですよね。でも、本当にそれだけで「パクリ」って言えるのでしょうか?
ここでは、話題の“似すぎ”論争の背景を整理しながら、ファンがどう感じたのか、そして何が誤解を生んだのかを掘り下げていきます。
ネットで話題になった「似すぎ」騒動の発端
『終末ツーリング』のアニメ化が発表されたのは2025年春。発表直後から、X(旧Twitter)では「少女終末旅行のバイク版?」といった投稿が爆発的に拡散されました。
どちらも少女二人が荒廃した世界を旅するという設定で、ビジュアルもどこか静かで寂しげ。だからこそ、初見の人が「似てる」と感じるのも無理はないんです。
でも、冷静に見ればこの手の「似てる騒動」ってアニメ界では珍しくありません。たとえば『まどマギ』が『ひぐらし』と比較されたり、『氷菓』が他の学園ミステリと似てるって言われたこともありましたよね。
作品の共通点:「少女2人」「終末世界」「旅」という構図
『終末ツーリング』と『少女終末旅行』が共通して持つのは、ジャンルとしての構成なんです。つまり、“少女×終末×旅”というテンプレート。
この組み合わせは、近年のアニメや漫画では一つの文法のようになっています。旅路を通して人間や世界を見つめ直す構造は、創作の王道でもあります。
だから「似てる」と感じても、それがすぐに「盗作」という意味ではないんですよね。むしろ、先行作へのリスペクトが込められている場合も多いんです。
なぜ“似ている”が炎上を招いたのか──ファン心理と創作文化の関係
ファンが敏感に反応した理由は、「大好きな作品を守りたい」という気持ちからだと思います。
『少女終末旅行』は多くの人にとって“終末ものの金字塔”であり、静けさや孤独を美しく描いた名作。それに似た構図を持つ新作が出てくると、「真似されたのでは?」と感じてしまうのも自然です。
でも実際には、“影響”と“模倣”はまったくの別物。作品の世界観やメッセージを自分なりに再解釈するのは、創作の進化なんです。『終末ツーリング』もその流れの中にあると言えます。

共通点の裏にあるジャンル構造──「終末×少女×日常」は誰のもの?
「終末ツーリング」と「少女終末旅行」が“似てる”って言われるのは、どちらも同じジャンルの文法を共有してるからなんです。
つまり、“終末世界で少女が旅をする日常”というテーマは、一人の作家のものではなく、もう文化的テンプレートになっているんです。
この章では、その「ジャンルの系譜」と『終末ツーリング』がどう再構築しているかを見ていきます。
“少女終末旅行”が確立したジャンル文法とは
2017年放送の『少女終末旅行』は、アニメ史に残る“静寂の哲学作品”。
廃墟を歩くチトとユーリの姿が象徴するのは、「滅びの中にある希望」というテーマです。日常の延長線上にある終末を、あんなに優しく描いた作品は珍しかったんですよね。
この作品がきっかけで、“少女×終末×日常”という構成がひとつのサブカル的ジャンルとして確立しました。
「終末ツーリング」がその文法をどう再構築しているか
『終末ツーリング』は、その文法を継承しながら、全く新しいアプローチをとっています。
ヨーコとアイリは、「生きるための旅」ではなく「記録するための旅」をしているんです。つまり、目的のない放浪ではなく、旅そのものをアーカイブすることがテーマ。
ここで重要なのは、終末世界を“観光”する視点。これは哲学ではなく“ロマン”なんです。
“似ている”ことは罪ではなく、ジャンル成熟の証拠
創作って、必ず誰かの影響を受けてるんですよ。『エヴァンゲリオン』だって、『イデオン』や『ナウシカ』の文脈を継いでる。
つまり、似てる=悪ではない。むしろ、「似てる」と感じること自体がジャンルの成熟を示してるんです。
『終末ツーリング』は、“少女終末旅行”の影響を感じさせつつも、自分たちの時代の感覚で再構築している作品。だからこそ、今のファンにも刺さるんだと思います。

『終末ツーリング』と『少女終末旅行』の5つの決定的な違い
ここからは、よく話題になる「似てるけど違う」という部分を、もう少し具体的に見ていきましょう。
『終末ツーリング』と『少女終末旅行』は、表面的な構図こそ似ていますが、テーマ・目的・ガジェット・舞台設定など、細かく見るとまったく違う方向性を持っているんです。
この章では、両作品を分ける5つの決定的な違いを紹介しながら、それぞれの魅力を深掘りしていきます。
① 旅のテーマ:「終末観光」vs「静かな絶望と哲学」
まず一番の違いは、旅の「意味」です。『少女終末旅行』が描くのは、“生きるとは何か”を問う哲学的な旅。
チトとユーリは、終わってしまった世界の中で、淡々と日々を過ごします。彼女たちの旅は「生きるための延長線」にあるんですよね。
一方で『終末ツーリング』は、“滅んだ世界を観光する”という新しいテーマ。廃墟になった日本を巡り、「この世界を見ておきたい」というポジティブな好奇心が原動力になっています。
つまり、同じ“終末”でも、『少女終末旅行』は内省の旅、『終末ツーリング』は記録と発見の旅なんです。
② 主人公の目的:「明確な目的地」vs「目的のない放浪」
『少女終末旅行』では、ふたりの目的は漠然とした「上層を目指すこと」。何があるか分からないまま進む旅は、まさに“生存の象徴”なんです。
対して『終末ツーリング』のヨーコとアイリは、“日本の名所を巡る”という明確な目的を持っています。
池袋のサンシャインシティ、横浜中華街、江の島、箱根……といった実在の場所をバイクで訪れるんです。
この「目的の有無」が、旅の雰囲気を大きく変えています。『終末ツーリング』は“サバイバル”ではなく“ロードムービー”寄りなんですよね。
③ SFガジェットの使い方:「AIハル」vs「謎の機械文明」
『少女終末旅行』の世界にある機械は、過去の遺産。壊れた兵器や謎のテクノロジーが登場しますが、説明されることはほとんどありません。
一方で『終末ツーリング』のバイク「セロー225」は、AIナビ“ハルさん”を搭載しています。
このAIが会話したり、旅先の情報を教えてくれたりするんですよ。ちょっと未来っぽくて、かわいい相棒的存在なんです。
つまり、『少女終末旅行』の機械は過去の象徴で、『終末ツーリング』のAIは未来の希望。この対比がすごく面白いんです。
④ ツーリング描写のリアルさ:現実のバイク×現場感
『終末ツーリング』の一番の魅力は、なんといってもバイク描写のリアルさ!
ヨーコたちが乗るのは、実在のYAMAHA SEROW 225をベースにしたカスタム電動バイク。燃料やバッテリー問題、整備まできっちり描かれています。
旅をする“実感”が強くて、読んでいるだけで風の音が聞こえるよう。これはバイク好きにはたまりません。
『少女終末旅行』が“抽象的な哲学の旅”なら、『終末ツーリング』は現実と地続きの終末旅なんです。
⑤ 舞台設定の違い:実在の日本×廃墟描写の緻密さ
『少女終末旅行』の舞台は架空の巨大都市で、どこの国かも分からない神秘的な雰囲気があります。
それに対して『終末ツーリング』は、完全に“日本”が舞台。神奈川・東京・箱根・熱海など、現実の地名や建物が細かく描かれています。
だから、「あ、ここ知ってる!」っていう感覚があって、まるで廃墟版の聖地巡礼をしてる気分になれるんです。
この「現実味のある終末感」は、まさに『終末ツーリング』だけの持ち味。作品の“リアルさ”が読者の没入感を引き上げています。

公式コメントと作者の意図──“リスペクト”か“偶然”か?
「似てる」って言われると、やっぱり気になるのは“作者は意識してたの?”ってところですよね。
ここでは、『終末ツーリング』作者・さいとー栄さんや、アニメ制作陣の発言をチェックして、本作の意図を探っていきます。
結果から言うと、これはパクリではなく、「リスペクトとジャンル継承」に近い姿勢なんです。
さいとー栄氏の発言:「少女を描きたいのではなく、旅を描きたい」
原作のさいとー栄さんは、インタビューで「自分は“バイク漫画”として描いている」と語っています。
つまり、少女が主人公なのは偶然で、メインテーマは“走ること”なんです。バイクに乗る感覚、風の音、タイヤの振動――それを描きたかったと。
この発言を見ても、『少女終末旅行』とは根本の動機が違うことが分かりますね。
制作陣のコメント:「似ていることを恐れず、走る喜びを描く」
アニメ制作を担当するKADOKAWAとCANDYBOXのスタッフも、「似ている」と言われることを前提で動いていたそうです。
監督の北村亮さんは、「“似てる”の先にある喜びを描きたい」とコメント。
つまり、“比較されることを恐れず、自分たちの旅を描く”という強い意志を持っていたんです。これって、めちゃくちゃ誠実なスタンスですよね。
法的視点から見た“パクリ”の境界線:「アイデアは自由、表現は守られる」
ちなみに、「パクリかどうか」を判断する上で大事なのが著作権法の考え方。
日本の著作権法では、「少女二人が終末世界を旅する」というアイデア自体は保護対象外です。守られるのは“表現”だけ。
つまり、キャラデザイン・セリフ・構図がコピーでなければ、それは「影響」や「オマージュ」の範囲なんです。
実際に『終末ツーリング』には、そういった具体的な盗用は確認されていません。

オタク文化の進化が見せた「パクリ論争」の新しい形
「パクリ論争」って、昔はただの炎上ネタで終わることが多かったですよね。でも最近のオタク界隈では、ファンがめっちゃ分析的なんです。
「この構図はあの作品のオマージュかも」「テーマが継承されてる」とか、作品をちゃんと文脈で語る時代になってる。
『終末ツーリング』をめぐる議論も、まさにそう。似てる=悪じゃなくて、「似てる理由を探す」っていう健全な方向に進んでるんですよ。
ファンが作品構造を分析する時代に
今のオタクって、ただ見るだけじゃなくて、作品の“構造”まで読み解く人が多いんです。
「チトとユーリの会話テンポが好き」「ヨーコとアイリの沈黙の間が美しい」とか、感覚じゃなく分析で語るファンが増えてます。
この現象は、アニメ文化が成熟してきた証拠。つまり、私たちはもう“消費者”じゃなくて、作品の“理解者”になってきてるんですよ。
“似てる”を批判から理解へ──リスペクト文化の広がり
『終末ツーリング』に対しても、SNSでは「パクリでは?」という声より「リスペクトを感じる」という意見が多く見られます。
これはすごく大きな変化。ファンが作品を“対立構造”じゃなくて“連続性”で見るようになったんです。
つまり、文化が「コピーを嫌う時代」から「継承を楽しむ時代」へと進化したってこと。
創作は連鎖する──ジャンル継承としての『終末ツーリング』
作品って、必ず前の時代の影響を受けて生まれます。『少女終末旅行』が“静けさの哲学”を描いたなら、『終末ツーリング』は“旅の記録と再生”を描いた。
つまり、ジャンルの継承なんですよ。どちらも終末という舞台を通して、「生きるとは何か」を描いてる点では同じなんです。
そう考えると、“似てる”ってむしろ誇らしいこと。文化が繋がってる証拠です。

まとめ:『終末ツーリング』は「パクリ」ではなく「継承」だ
ここまでいろんな角度から見てきましたが、結論はシンプル。『終末ツーリング』はパクリではなく、リスペクトと継承の作品です。
『少女終末旅行』が示した“終末の中の優しさ”を引き継ぎながら、『終末ツーリング』は“終末の中の好奇心”を描いています。
つまり、どちらも終わりを描いてるけど、向かってる先は全然違うんです。
終末を走る少女たちが描く「希望の記録」
『終末ツーリング』のヨーコとアイリは、ただ生きるためじゃなく、「記録するため」に旅をしています。
その姿って、まるで私たちオタクが「推し活」してるのと似てるんですよね。好きなものを記録し、誰かに見てほしい――それが生きる理由になる。
だからこそ、この作品は“ポスト終末系”の希望を描いているんです。
“似てる”ことを恐れず、次の時代へ走り出す創作の力
創作の世界で一番大切なのは、「似ないこと」じゃなくて、「進化させること」。
『終末ツーリング』は、“少女終末旅行”という地図の上を走ってるけど、ちゃんと自分たちのルートを描いてる。
これは模倣じゃなく挑戦です。似てる部分があるのは当然。でも、その上で「新しい景色」を見せてくれるのが本作の魅力。
アニメ『終末ツーリング』が示す、「終わりの後を生きる」意味とは
この作品の根底にあるのは、「世界が終わっても、人は走り続ける」というメッセージ。
それって、現代社会に生きる私たちにも刺さるんですよね。忙しさとか、SNSのノイズとかに負けそうになっても、好きなことを続ける――それが生きるってこと。
『終末ツーリング』は、そんな“今を生きる勇気”をくれる作品なんです。


- ★ 『終末ツーリング』は『少女終末旅行』と設定が似ているが、テーマ・目的・構成が明確に異なる。
- ★ 作者・さいとー栄氏は「少女を描く」のではなく「旅を描く」ことを重視しており、バイク×終末の視点が独自。
- ★ 作品の共通点は“ジャンルの継承”であり、パクリではなくリスペクトと発展の関係にある。
- ★ ファンの間でも「似てる」を批判ではなく、文化的進化として受け止める声が増えている。
- ★ 『終末ツーリング』は“終わりの世界で生きる希望”を描いた、現代的で前向きな終末アニメである。
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